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更新日:2025年12月17日 お知らせ

『東京水道の日』

唐突ですが師走です。

街がキラキラと輝き始めました。ふと見上げると、あちらこちらでクリスマスイルミネーションが点灯し始め、年の瀬の賑わいを感じますね。この時期特有の澄んだ冷たい空気の中に、柔らかな光が灯る景色を見ると、心が少し浮き立ちます。皆様はもう、年内の予定は立てられましたか?、

 

少しさかのぼりますが、12月1日は「東京水道の日」でした。

これは1898年(明治31年)12月1日に、淀橋浄水場(現在の西新宿の高層ビル群がある場所)から神田・日本橋地区に給水が開始され、これが東京の近代水道の始まりとなったことに由来しています(因みに、日本初の近代水道は、1887年(明治20年)に通水を開始した横浜市です)。そして制定したのは、東京都水道局です。この日を中心に、東京水道の取り組みや水の魅力を伝えるためのイベントなどが実施されることがあります。

国土交通省が音頭を取って執り行われる「水道週間」(6月1日~7日)と言うのもありますが(因みに今年のスローガンは「透き通る 誇れる水に 感謝する」 でした)、これとはあまり関連のないイベントの様です。

 

江戸時代に整備された神田上水や玉川上水は、当時の世界的に見ても優れた水道システムでしたが、明治時代に入り東京の人口が急増すると、供給量と衛生面の問題が顕在化してきました。

そもそも当時水道管として使われていた木樋(もくひ)とは、読んで字のごとく木製です。木材をくり抜いたり、板を組み合わせて箱状にした水道管の配水システムです。これが老朽化し、破損や漏水が頻繁に起こっていました。また、開渠(屋根のない水路)が多く、生活排水やゴミの混入による水質の悪化が深刻化し、コレラなどの伝染病の発生源となっていました。さらにその給水量は需要を賄いきれませんでした。

 

明治政府は、これらの問題解決のため、欧米の技術を取り入れた近代的な水道整備を計画したのでした。これは、江戸時代からの上水(神田上水、玉川上水など)が抱えていた衛生面や給水能力の限界を克服し、都市の発展と衛生環境の改善を目的とした、一大プロジェクトだったのでした。

まずは欧米諸国の外国人技師を招聘しました。その筆頭がイギリス人技師のヘンリー・スペンサー・パーマー(日本の近代水道の父とも呼ばれるイギリスの軍人であり、土木技師)です。

 

ヘンリー・スペンサー・パーマーは1838年4月30日、イギリス領インド帝国のバンガロールで生まれました。父親は東インド会社に勤務する陸軍大佐だったそうです。イングランドのバースで教育を受け、1856年に王立陸軍士官学校(ウールウィッチ陸軍士官学校とも言う)に入学し、土木工学(Civil engineering)を学びました。

学校卒業と同時に工兵中尉に任じられ世界各地の英国領に派遣され、軍人・土木技師として、その才能を発揮しました。

1858年、カナダのブリティッシュコロンビア州調査団の一員として派遣され、調査事業に加えて道路工事の監督にあたりました。

1863年、結婚してイギリスへ帰国。イギリス陸軍測量局に勤務し、科学者としても知られるようになりました。

1874年以降、ニュージーランド、バルバドスなどのイギリス領に派遣されました。

1878年、香港に赴任し、広東水道と香港水道を設計しました。

1883年、中佐として来日。神奈川県から横浜上水道建設計画を依頼され、計画を提出しまし、1885年に大佐として再来日し水源を相模川支流の道志川とする横浜水道の建設に着工し、顧問工師長として指揮を執りました。

1887年に日本初の近代水道である横浜水道が完成しました。その功績でパーマーは少将に昇進し、定年退職しています。

しかし退役後も日本に留まり、内務省土木局名誉顧問技師として、横浜港築港計画の監督や、東京水道や大阪、神戸、函館の水道計画、兵庫県の淡河川疏水(御坂サイフォン橋の設計が著名)など、日本の近代化に多大なる貢献をなさったそうです。

晩年、1893年2月10日、脳卒中により、東京の麻布にある自宅で54歳の若さで死去され、青山霊園の青山外国人墓地に埋葬されています。

彼は、単に水道技術を伝えただけでなく、港湾設計など様々な分野で日本の近代化に貢献した人物です。

 

東京近代水道の心臓部となったのが、現在の新宿副都心(西新宿の高層ビル群がある場所)に建設された淀橋浄水場です。欧米で衛生工学を学んだ日本人技師の中島鋭治が、浄水場をより標高の高い淀橋に設置する案を提言し、採用されたという経緯があります。

玉川上水から新設した水路で水を引き、緩速ろ過(ろ過池に張られた砂層を通すことで、ゆっくりと水を浄化する衛生的で確実な方式)を導入し、鉄管を使用し、ポンプで圧力をかけて市内に水を送り出す「有圧送水」方式を採用しました。

これにより安定した給水が可能になりました。淀橋浄水場からの給水開始は、当初神田・日本橋地区などの都心部から始まり、順次給水区域を拡大していきました。創設時の水道工事がすべて完了したのは1911年(明治44年)のことです。

 

折角なので(?)中島鋭治について少し述べてみましょう。

安政5年10月12日(1858年)に、仙台城下支倉通り(現・宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれました。中島家は代々伊達藩士の家柄でした。

3歳で父を亡くし、母の手で育てられた鋭治少年は気性が強く、信念を曲げない腕白少年であったとされています。

13歳で藩校の養賢堂に入学しました。17歳で入学した官立宮城外国語学校で、土木工学を修めていた英語教師グールドの影響を受け、土木工学に関心を持つようになったそうです。

この後、20歳で上京し、大学予備門に入学します。そして23歳で東京大学理学部土木工学科に入学しました。

学生時代は勉学に専念し、3年後にはなんと首席で卒業しています(1883年/明治16年)。

卒業と同時に大学御用係を拝命し、3年後に助教授に就任。さすが首席ですね。

1884年(明治17年)には、京阪、大和、伊勢地方などで古代建築物の調査を行っています。

その後、1887年(明治20年)から文部省の命で米欧各国へ留学し、橋梁工学と衛生工学を学びました。特にドイツで水道工事、イギリスで上下水道、欧州各国で土木工事について学んで来ました。

1890年(明治23年)にドイツに留学中だった中島は、当時の最高権威者として急遽帰国し、東京市の水道敷設プロジェクトに参加することになります。

外国人技師の計画案を精査し、特に、浄水場を千駄ヶ谷から、自然流下で配水するのに効率的だった淀橋(よどばし)(現在の新宿付近)に変更する案を提唱し、実現に導き、1898年(明治31年)には東京市技師長となり、上下水道技術の最高権威者として活躍しました。

東京水道完成後、中島は工学博士として日本全国の都市計画・水道設計の指導者となります。

東京市のほか、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、小樽などの多くの都市の近代水道創設に深く関わり、外国技術を日本の風土に合わせて発展させました。

さらには、中国の漢口や朝鮮の釜山といった海外の都市の水道敷設にも携わっています。

中島鋭治は教育活動にも力を注いでいて、東京帝国大学工科大学の教授として、日本で初めて衛生工学講座を開設しています。その自らの知識と経験を基に、数多くの優秀な土木エンジニア、特に上下水道技術者を育成した。それらの活動を通じて、都市のインフラ整備と公衆衛生の向上という、明治から大正にかけての日本の近代化に不可欠な土台を築き上げました。

東京都世田谷区にある駒沢給水塔は、中島が設計を手掛けた施設として特に有名です。そのほか、中野の旧野方配水塔など、ヨーロッパの様式を取り入れた美しいデザインの配水塔を設計しました。下水道のマンホールの蓋の「東京市型地紋」の考案者ともされています。

その功績から、「日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父」と呼ばれました。

 

なんとも、紙幣の顔になっちゃいそうなものすごい功績の偉人ですねぇ。。。


 

そんな沢山の英雄達の努力の結晶である近代水道の登場は、東京の公衆衛生を飛躍的に改善し、その後の東京の都市発展の基盤となりました。

 

このような先人達の努力と功績を称え、安全でおいしい水を安定的に供給する技術への理解を深め、水資源の貴重さへの感謝の念を育む機会として「東京水道の日」が制定されたのです。

 

東京水道歴史館(東京都文京区本郷2-7-1)では、その日を記念して先着2,000名にノベルティグッズがプレゼントされるイベントをしていたそうです。東京水道の歴史に興味を持たれた方は、是非、観に行ってみてください。

 

耐震化を含め、日進月歩で水道事業の技術的な発展は進み続けています。

 

未来の、安心で安全な水の道を我々と共に作っていきませんか。

 

千葉県船橋市の株式会社

フジケンは未来志向の仲間を募集しています。

 

それでは今回はこのあたりで。

次回の更新も、どうぞお楽しみに。

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